https://www.sagasix.jp/knowledge/guide/care_house/
↑ケアハウスって何?という人は、ここで見てみてください。
みえちゃんが住んでいるところです。
みえちゃんは、私が子供の頃から なにもできない人でした。
料理も、当時の高い蒸し器などを父に買ってもらって
料理教室に行って、家で何度か失敗して、
「薬を買いにお客さんが突然来て火加減まちがった」とか
「化粧品のお客さんが長居したからシュークリームがしぼんでしまった」とか
言い訳しては、トンでもないものを生産してました。
お店番と言っても、勤務中なのですから、そんなもの作らなくても・・と
思いますが・・・(笑)
性格も私とは正反対で、いつも不満だらけ。
だったら自力で何か行動を起こせばいいのに、
何かと理由をつけてはじっとしていました。
私との相性は最悪です・・
みえちゃんは私の弟を溺愛してました。
父はとても器用な人で、みえちゃんに薬局のお店番以外、ほとんど何もさせず、
それは、お店を閉めたあとの老後生活の中でも同じでした。
若い頃から車の免許も取らせず、旅行、買い物、掃除など
何でも父がやってました。
あるとき、(私が海外に住んでいたとき)
みえちゃんの 母、さつきばーちゃんが亡くなり、母方の実家に
誰も住む人がいないから・・と40年近く住んだ札幌の家を
不動産業の弟に売りに出してもらい、
熊本の実家へ父もろともお引越し。
父は最終的には言いなりで自分の親戚も今までの友人も一人もいない
熊本へ移り住んだのです。
もうひきとめられなかった。
好きにさせてやるしかない・・と思ったらしいです。
みえちゃんには更に相性の悪い妹がいて、
「あの家には住みたくない、姉ちゃん、帰ってきて!」
と頼まれた・・そうですが・・実際帰ってみると
「まさか帰ってくると思わなかった!、そんなこと頼んだ覚えは無い!」
それでも、なにもできないみえちゃんは、妹から意地悪されながらも
父が盾になって快適に過ごせていたのですが、ひざが悪くなって
歩くのが大変になってきていました。
そこから約15年、田舎の親戚の中でもめにもめながら
父にとっては こんなはずじゃなかった・・生活が続き、
最終的には父はガンで亡くなりました。
亡くなる直前、父は私に
「何も心配しなくていい、姉妹で仲良くやっていけるから」
と、大嘘を言って亡くなりました(笑)
スーパーまで車で10分、コンビニすら歩いて15分。
みえちゃんには無理です。買い物もできません。
妹は買い物にも気分で来てくれたり来てくれなかったりします。
コーヒーに入れる牛乳すらないと愛知県に住む私に電話が来ます。
業務スーパーからダンボールで大量の食材を買い
送りました。
父が亡くなる前から少しずつ認知症も進行してました。
コーヒーを飲もうとやかんでお湯を沸かし、
そのまま庭の雑草を抜き始めて、やかんを焦がしたり、
トイレに間に合わなかったり・・
そして・・
四十九日を迎えるまで待ち、私が我慢できなくなり
みえちゃんを私が今住んでいる愛知県の施設へ入れることにしました。
弟が住んでいる札幌には戻りたくない・・と言うのです。
立派なおうちに住む弟も、玄関の階段をバリアフリーにするのに
100万かかると言います。
もういいよ、うちのダンナさまに交渉して、
ケアハウスも交渉して、予約入れて・・
全部一人で頑張りました。家を売るつもりで迎えに言ったら、
妹を含む、他の親戚たちに詰め寄られ、家を売るなと言われ・・
今もそのままにしてあります。
弟に管理させ、あれだけもめた妹(みえちゃんの妹ね)が、
タダ同然で住むことになりました。
私は完全に財産目あての悪者扱いで、二度と行くこともなくなりました。
財産なんてほとんどないのに・・(笑)
あるのは売るに売れない家とみえちゃんのお葬式代くらいです。
なんとなく、暗い話になってしまいましたが、全然暗くないですよ。
ただ、気づいたら、父がやっていたこと、全部そっくり、私が代わりに
やることになっていました・・・
これってなんだか・・
昔から、父の束縛と母のわがままが嫌いで嫌で、
札幌から大阪へ就職して引越し、
その後、それでももっともっと遠くへ
地球の裏側のニュージーランドまで行っちゃいました。
あるとき、NZ人の友人に(彼女はクリスチャン)
「あなたはまだ、やり終えていないことがある・・お母さんのことね、
あなたはそれをするために日本へ戻ることになると思う」
って言われてたんですよね。
徳を積むってことなんでしょうか?
スピリチュアルなお話だとすると、『引き寄せ』?
人間として、やらなければいけないことがあるというか
どうやら、父の代わりになったのはそういうことだったの