音楽と生い立ち その3 まで
いわゆる黄金期の怖いもの知らずの日々でした。(笑)
みなさんも、例えば部活などで
充実した学生生活の経験をされた方も多いかなと思います。
楽しかったな・・
黄金期のあと・・
さて、怖いもの知らず、技術的にも未熟なくせに、
その時はてっきりこのまま続けていれば
プロのミュージシャンになれる・・と思っていました。
一応進学校だったので、メンバーそれぞれ、
受験シーズンともなると部活は引退、
どの大学がいいかなあ・・と考えながら
やっぱり音楽系?教育系?ま、文系かな・・
理数系は縁がない私はやはり少しでも音楽から
離れないようなところがないかと探し・・
教育大の音楽教育関係を目指そうと思っていたら、
そこで、前はあんなに音大音大と言っていた親に
4年制に行ったら就職できないらしい・・などと
言われ、短大にしか行かせない・・と言われ・・
今の時代では考えられないようなことだよね・・泣
じゃ、短大行かずに東京に行ってミュージシャンになると言ったら
大反対され・・・。(あたりまえか)
結局、
短大の音大系の保育、幼児教育課を受験しました。
ピアノ科、声楽科などもありましたが
クラシックのピアノレッスンやめて2年が経っていたので
たぶん無理・・でも幼稚園の先生程度の必修なら
こなせるかなと・・(笑)
それと、ヨーロッパ研修というのが
あったんです。これが一番の目的でして。
大学について散々注文を付けられた親への腹いせもあり、
洋楽の聖地である(クラシックだけじゃないもんね)
ヨーロッパ、自分で稼いで行くとしたら
まだ数年かかるしね・・
受験は 歴史、国語、英語と
ピアノ実技(中級程度)と、声楽(歌)
で、受かりました。いえい!
花の女子大生(短大ですが)
それなりに、というか、とても楽しかったですよ、はい(笑)
高校生と大学生の差って、やっぱり大きいです。
なんだか急に大人の世界に飛び込んだような気がしました。
それと、もちろん、単位さえ管理できれば
空き時間を作ってバイトを入れたり
何をしても自由だし・・
高校時代のバンド活動を見てくれていた
社会人のセミプロのようなバンドに誘われ
バンド活動も続いていました。
ぬるま湯のような学生バンドとはちがい、
仕事の合間にテクニックを磨くような
みんな上手い人ばかりで
自分が井戸の中のかわずだったことがわかって、
でもすごく勉強になりました。
憧れのヨーロッパ
あー、4年制に行きたかったなあ・・
今は親としては、やはり娘は4年制+1年アメリカへ留学で
大変な散財(泣)となりましたが
娘にとってはすごく良かったと思っています。
1年思いっきりエンジョイしたと思ったら
2年生では教育実習、ヨーロッパ研修。
生まれてはじめての海外。
オーストリア、イタリア、スイス、
フランス、ロシア
これはその後の人生を変えるほどの
影響があって、本当に行ってよかった。
そして・・あっという間に就職活動開始で・・
就職活動・・不良から順に決まると言われる
いわゆる幼児教育と音楽教育関係の就職を狙っているクラスのため、
当時ほとんどが私立幼稚園の就職解禁に合わせての準備。
確か10月1日だったような記憶があります。
私もその時期には東京でプロでミュージシャン・・
などは考えておらず、高校時代のバンドの仲間も
それぞれの道へ進んでいたので、
普通に幼稚園の先生かなーと思っていたのだけど、
東京はダメでも、どうしても家を出たいと
強く思い始めていたため、
父の実家のある京都で先生になりたいと
言ったら許してもらえるかも・・と
甘いことを考えていました。
実際にその話をしてみると、
父が京都の親戚(大叔父)の議員さんに
口を利いてやると言ってくれたため
面接と受験の準備をして待機。
たしか、公立幼稚園だったので、
10月ではなく7月1日が試験日で
準備をして待つことに。
親子断絶
ところが、7月1日の2週間前になっても
一切詳細がわからず、返事が無いのか父に聞くと
「待て」の一点張り。
とうとう、数日前になり、飛行機も取れないと
言うと、
「実は何も言っていない。おまえは札幌で就職して
実家から通勤だ」と・・・
暴れました・・・
父もまだ若かったので
血の気が多く、反論したら
「親に向かってその態度は何だ!」と
髪の毛つかまれて引きずりまわされ。。
いやいや、悪いのは私ではない・・。
その後、もちろん札幌の幼稚園の応募もできず
(するつもりゼロ)
いきなり、一般就職へ切り替え。
確か9月1日が解禁だったような・・
そして、一般常識とかの試験対策の
問題集など買い、そこから2ヶ月。
いつも大学の近くのお世話になっていた喫茶店の
マスターに
時給のよさそうな、安全そうな
夜のバイトを紹介してもらい、
(ピアノバーのお店のママさんと友人だった)
お店で暇なときにカウンターに座って
問題集を広げ、勉強しながら
旅費、その他1人暮らし開始までのお金を貯めました。
9月1日、京都の叔母の家に泊めてもらい
自力でヤ○ハの大阪支店へ試験を受けに行きました。
10名の採用のうち、高卒が4名募集
残りの6名が短大、大学卒の募集。
希望者は合わせて500名ほどだったらしい。
そこがダメならどうしようと考えることもなく、
絶対に受かるつもりで
(あのときのパワーはなんだろう・・?)
1次試験で50人に絞られ、
2次の面接で気に入ってもらえたのを確信し
無事、決定しました。
というわけで、仲間はほとんどが
10月解禁のところを私は急遽一般に切り替えたため、
9月中旬には決まってしまったわけで。
授業をサボってバンド練習とかしていた私は
「不良から順に決まる」と言われたわけです。(笑)
6月末から、卒業、3月の引越しまで
というか、それから数年、実家に戻らなかったので
父親とは何年も話すこともなく・・
不思議なもので孫ができてからは普通に話すようになりました。